オックスフォード辞典は、ピーターパンについて若さを保ち、年を取らない人と定義しています。作家バリーが創造した、迷子のピーターパンをダーリング家の娘、ウエンディは気の毒に想い、ネバーランドの冒険の間、母親のように面倒を見ました。
ピーターパンは永遠に子供のままでしたが、大人になりたくなかった男の子でもあったのです。物語の中でピーターパンは「人生こそ最大の冒険なんだ」と言っています。
米国初のロックスターは、世界中の圧倒的な支持を得てのし上がりました。1956年、21歳で数々のヒットを飛ばし、最初の映画「ラブ・ミー・テンダー」が封切られると「腰振りのエルビス」はショービジネス界の寵児となりました。
1960年代の半ばには代わってビートルズが人気を博し、エルビスは人気の陰りを感じ始めました。1977年、彼はこの世を去りましたが、エルビスへの称賛は決して消えることがありません。
エップに会えば、彼が登山ガイドの仕事に、どれほど愛着を持っているかが分かるでしょう。細身で小柄ながら仕事熱心なこの男性は、温かい人柄も相まって今ではただのガイド以上の存在です。
ヨセミテやアラスカ、ラップランドや地元スイスで登山者を元気付け、集中力を付けさせ、自然に理解を示しました。まいた種の分だけ収穫がある、というのが彼の信念です。彼のスキーツアーに参加したことのある人なら百も承知の事ですが、仕事は彼の命なのです。
1939年生まれのシカゴは、女性の芸術家がずっと無視され、過小評価されつづけている事実に、早くから気付いていました。
カリフォルニア大学では、絵画科が女性教員に門戸を閉ざしていた為、彫刻科に勤めました。
芸術家の立場から女性を激励し、多くの女性解放事業に着手する事により、自らの認識を表現しました。1979年、歴史上の女性、1038名の功績を称える晩餐会の食卓を表現した大作、「晩餐会」を共同制作しました。
ポーランドに生まれ、後にパリに移りピエールと結婚しました。ある元素の発見に生涯を捧げ、1989年、これをラジウムと名づけました。
ピエールもマリーも同じ夢を追い求め、これを今世紀初頭に実現、1903年、アンリ・ベクレルと共に、ノーベル物理学賞を受賞しました。マリーは夫の死後も夢の実現に努め、1943年、ついに世界初の放射能汚染の犠牲者となりました。
第二次世界大戦当時のイギリスの指導者で政治家、作家、画家のチャーチルは1940年、それまで議会で不評を買ってきた性格が、逆に待望されるという好機に恵まれましたが、これがなければ、ほとんど無名のまま生涯を終えていたかもしれません。
彼は、自分の才能を発揮するチャンスなら何でも利用する主義で、巧みな企画力、弁舌、指導力、彼一流の厳しい統率力などを存分に発揮しました。
彼はまた、戦争回顧録でノーベル文学賞を受賞しました。
1987年、ウィスコンシンに生まれたオキーフは、画壇の中心的存在と見なされています。1976年の総カラー作品集出版当時も、彼女は1人ニューメキシコの農場に住み、なお作品制作に没頭していました。
何をするにしても自分が興味を持てることが一番と、いうのが生涯を通じての彼女の信念です。
オキーフは、若い陶芸家の姿を見て陶芸にも挑戦し、こう言ったそうです。「私はまだ土の声を聞いていない。声を聞くまではまだ死ねない。」
アメリカ人、フォッシーはその著書「霧の中のゴリラ」で、ザイール、ルワンダ、ウガンダ国境地帯でほぼ絶滅状態にあったマウンテンゴリラの生涯を紹介しました。
1963年、保護活動に乗り出したフォッシーは、その統合性の高い人柄のとおり、密猟に反対するだけでなく、これに代わる収入の道として観光産業を奨励しました。活動は保護政策の手本となりましたが、フォッシー自身は1985年に殺害され、これは密猟者の恨みによる犯行と見なされています。
この有名なイギリス人看護婦が若い頃には、まだ今日ほど選択の自由がありませんでしたが、彼女は自分なりの自由を行使し、教師の道を捨て、看護婦になりました。ベルギーで診療所の婦長となったキャベルは、世界の国々から人材を集め看護婦の育成にあたり、看護婦の地位向上に努めました。
いかなる時も自分に正直でいる道を選んだ彼女は、1915年、連合軍兵士の脱出を助けたことを認め、ドイツの軍事法廷で銃殺刑を宣告されました。
1745年、英国王子チャールズは、王位継承権をめぐるスコットランドでの戦いに敗れ、賞金付きで指名手配された。
1746年、政府軍に捕まりかけたところをフローラ・マクドナルドに助けられた。彼女は、王子に女装をさせ、自分の侍女のように見せかけ、政府軍の眼をくらました。共に船で海を渡り、スコットランド北西の安全な島まで、危険を冒しながらも無事に送り届けた。